d.秋まきコムギと春まきコムギ
秋まきコムギというのは、秋に種子をまき、翌年の春から夏に収穫するコムギです。このコムギは一定期間低温にあたらないと穂が出ません。一方、春まきコムギは、春にまき、その年の夏から秋に収穫するコムギで、低温にあたらなくても穂が出ます。もし、秋まきコムギを春にまくと、どうなるのでしようか? 葉がしげるばかりで穂が出ません。しかし、苗を冷蔵庫に1カ月ほど入れてから、暖かい場所に植えると、何枚かの葉が出た後、穂が出てきます。
本来、コムギは秋まきでした。秋まきコムギは冬の寒さを体験してはじめて穂を出します。しかし、コムギは、ヨーロッパの北部のとても寒い地域では、その冬の寒さに耐えることはできません。そこで、寒さにあわなくても穂を出す性質をもったコムギの品種が選ばれ、これを用いて春まき栽培がおこなわれるようになりました。このようにして、春まきコムギが生まれたのです。現在では、北ヨーロッパ、ポーランド、ロシア、北アメリカ大陸北部、北海道の一部で、春まきコムギが栽培されています。
日本列島は南北に細長く伸びていますから、地方によって温度が違います。それで、コムギを播く時期、収穫の時期などが地方によって多少違いますが、大体図1のようになります。秋まきコムギは秋に種子を播いて、翌年の晩春に収穫します。春まきコムギは春の雪どけを待って種をまき、その夏に収穫します。

図1.コムギの栽培-秋まき栽培と春まき栽培
(教材植物マニュアルNo.7から)
(教材植物マニュアルNo.7から)
北海道を除く日本列島には梅雨があり、春まき小麦ではちょうどその時期が結実の時期にあたり、麦の栄養成分が流れ出てしまう。だから西日本も東日本もだいたい秋まき越年小麦を栽培する。すると収穫期はちょうど五月末あたりになる。黄金色に実った風景を詩的日本語で「麦秋 ばくしゅう」と呼ぶ。小津安二郎の映画「麦秋」はよく知られている。
北欧や北海道やロシアでは、厳寒に小麦が耐えられないために春まき小麦を、プロバンスやイタリア、スペインなどでは秋まき小麦をそれぞれ栽培する。
こうした種まき~ハーベスト~落穂ひろいの季節感の相違は、当然、住む人々の死生観や人生観にも影響する。春田植えして秋収穫する稲作民族と、同じく春巻き小麦の南欧では、季節感や生活習慣が当然似てくるが、北欧だと季節がまったく正反対になるのであるから、季節感や生活観に違い出てもおかしくないわけである。
ただ、欧米人は小麦を主食とする民族だとは言いにくい一面がある。彼らの主食は肉である(いまだに完全狩猟採集生活を残存させる)。しかし肉だけではインシュリンが得られないために仕方なくパンを食べている。
さらに、パンもパスタも作り置きしておく食べ物で、コメ食民族のように毎日毎朝、飯炊きで主食に大幅な時間を割くことがない。小麦栽培そのものも、稲作に比べるとおおざっぱでシンプル。だから時間が増える。するとソースや煮込みに手間隙をかける料理が増えた。
一方、コメ食民族は、ソースやスープには手間隙はかけておられないため、醤油や味噌のほうを作り置きにしている。実に面白い正反対の対応である。
稲作は南方植物で多湿を好む稲を栽培するため、高温多湿な場所を選択するが、小麦は寒冷地や乾燥地を選ばせた。
アフリカ北部のように、強い偏西風や季節風が一旦東のヒマラヤ山脈の巨大なついたてにさえぎられて、もどってくる灼熱の強風をもろに受けるため、手ひどい乾季を経験する地域で、一般に死海のほとりであるレヴァント地方から小麦栽培が始まって広まるという意見よりも、レヴァントでは適地ではないからいやおうもなく四方へ移動して行ったと考えたほうがよいかもしれない。人類の拡散も、だから、アフリカ東南部から北上してレヴァントまで遡上した原人類の一団は、まもなく滅亡しており、その後、アラビア半島南端のイエメンを通過してパキスタン・バングラデシュあたりに上陸した第二弾の原人集団が東西南北、ステップや海の道あるいは欧州へ分岐移動しているわけである。
これまでの旧説
この経路図はすでに古い。管理者の不勉強。
稲作民族の死生観は、田植えの春から収穫の秋までをハレの一年とし、冬から春先までをケの一年とし、つなぎの十・十一月と二月・三月に多くの追儺行事が集中することになる。これが稲作民族のいわゆる二度の一年の繰り返しの生活観、冬至夏至よりも春分・秋分を重んじた民間感覚である(神社祭祀なども同じく新嘗・神嘗祭などを主に置く)。だから命は春にめばえ、夏秋をへて冬の死へ向かう。これは北欧も同じである。
だが温暖地では、秋からたねをまき、初夏五月に収穫するので、例えば新学期や社会生活の始まりも秋に設定されることとなる。そして真夏は日本人では正月に当たるから長いヴァケーションをとるようになった。今の日本の学校生活は欧米をモデルにしてはいるが、始まりだけは古い死生観の春のままである。だから日本人は桜を春、蘇り、死生観の代表としたが、南欧・米では桜ではなく秋の花になる。冬の長い北欧は栽培時期がすれているにも関わらず、春を待ち遠しく思うのは日本と同じである。
日本から西へ、ステップロードを経て北欧までは、二月・五月を非常に尊び、やはり追儺に等しい冬至祭を行う習慣が残っている。これらは東西共通の原始信仰を残存させることになった。しかし南欧では五月にメイポールをたてて夏至を祝い、正月直前の12月をイエスの生誕の日に当てた。夏至よりも冬至を祝うのは日本や東アジア、北欧、トルキスタンで、冬至を復活祭、クリスマスに置き換えたのは南欧・ローマ人である。ケルト民族などは中央から北欧に住まった人々なので、冬至祭を尊び、あのストーンヘンジなどもそうした祭祀場であったのだろうが、中世になるとキリスト教の侵入がローマ人によって起きて、ヘンジの周囲ではむしろ五月祭が主流になり、その混合を統一するための独特のリーダーが登場する。
北欧には古い冬至祭とクリスマスがミックスした祭が多い。司祭とサンタクロースと死神が一緒に登場し、人々はわらで作った精霊に扮して、子供をしかりつけたりする。まるでなまはげそっくりの追儺が存在する。
また世界共通なのは、節分のころ、春分などにナッツ・ビーンズをまく風習である。これは北欧で顕著で、くるみやピーナツを部屋の中にまく。おばあさんが先頭で、あとに子供らが続く。どれもみな種まきの擬似行為で、意味は冬のあいだの災厄や悪鬼を追い立てる行為なのである。→このブログの「もうひとつのクリスマス」など参照。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51469333.html
このように環境や生活観の違いは、死生観やよみがえりに対する古代人の考え方に多大な影響力を持っていた。
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
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