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南紀名物鯨料理の画像
日本における捕鯨の歴史
小山田與清『鯨肉調味方』(天保3年 1832)
「古事記、日本紀などに載せたる神武天皇の大御歌に、勇妙し、鯨障り、とあるは、大饗のをりの御饌物(みけつもの)に鯨有しに就て、詠出たまへるなんめれど、其製法知べきやうなし。日本紀、万葉集などの歌に鯨魚取(いさなとり)と詠るがおほかれば、上古もはら食料にせしものとみゆ」
大意
「古事記や日本書紀などにある、神武天皇の御製歌に、「勇妙(いすぐは)し、鯨障り」とあるのは、のちの宮中の大饗(おおみあえ)の儀の際のご神饌にくじらがあるので、歌になったのだろうが、その調理法は知るべくもない。『日本書紀』、万葉集などの歌には、「鯨魚取り(いさなとり)」と詠まれた歌が多いから、上古はもっぱら鯨を食料にしたものと見られる」
日本の捕鯨はいつからあったのだろうか?
国立民族学博物館は
「捕鯨に関する文化人類学的研究における 最近の動向について(PDF)」において
「日本列島では,縄文時代早期(約10000 年前~ 6000 年前)の遺跡から鯨類の骨や歯が出土している。また,九州の北西部から南西部にかけての縄文中期および後期の遺跡からナガスクジラやマッコウクジラ,イワシクジラなど大型鯨類の椎端骨製の土器製作用マットが出土している(平口2009)。石川県の真脇遺跡(約5000 年前)からカマイルカの骨が出土しており,平口は分配や祭祀が行なわれたらしいと推定している(平口2003)。縄文時代におけるイルカ漁についてはその存在が証明されているが,大型鯨類の捕獲は行われた可能性はあるものの,確証はないという(平口2009:41)。」
としてあるが、最近の学説では縄文時代の捕鯨はあったとする説が強い。
「捕鯨に関する文化人類学的研究における 最近の動向について(PDF)」において
「日本列島では,縄文時代早期(約10000 年前~ 6000 年前)の遺跡から鯨類の骨や歯が出土している。また,九州の北西部から南西部にかけての縄文中期および後期の遺跡からナガスクジラやマッコウクジラ,イワシクジラなど大型鯨類の椎端骨製の土器製作用マットが出土している(平口2009)。石川県の真脇遺跡(約5000 年前)からカマイルカの骨が出土しており,平口は分配や祭祀が行なわれたらしいと推定している(平口2003)。縄文時代におけるイルカ漁についてはその存在が証明されているが,大型鯨類の捕獲は行われた可能性はあるものの,確証はないという(平口2009:41)。」
としてあるが、最近の学説では縄文時代の捕鯨はあったとする説が強い。
● 縄文時代
1約8000年前(縄文前期)千葉県館山市の稲原貝塚
イルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土
1約8000年前(縄文前期)千葉県館山市の稲原貝塚
イルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土
2約5000年前(縄文前期末~中期初頭)富山湾石川県真脇遺跡
大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。
3縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている。
●弥生時代
1長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡
弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻。韓国盤亀台の岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。原の辻遺跡では、弥生時代後期の出土品として、鯨の骨を用いた紡錘車や矢尻なども出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。
もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨を解体していたと見られている。
2北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うといい、これはコディアック島などの先住民による捕鯨と共通する。鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという。
●奈良時代
『万葉集』においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている。
『万葉集』においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている。
●鎌倉時代
鎌倉の由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている。
「海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた。」
以上Wiki日本の捕鯨から編集http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%8D%95%E9%AF%A8
捕鯨については、最近の考古学の報告から考えて、その始まりを縄文時代に求めてももうよいだろう。
小型鯨やイルカならば、丸木舟とカヅラ縄でも十分対応できる。マッコウクジラやナガスクジラのような大型のものは無理だっただろうが、漂着すれば当然食べたであろう。もちろん和歌山県太一町の追い込み漁でなら、イルカばかりかオキゴンドウや背美クジラなども追いこめる。
応神紀に、気比大神との神名交換記事がある。ここではイルカであり、「贄」とされるので、神からの贈り物である。それが「鼻を痛めた」イルカであったのは、追い込み漁による殴打のためであっただろう。つまり5世紀あたりに追い込み漁はあったという資料である。
応神と天皇が名前を交換した、だから祝いの品として追い込み漁のイルカを与えた。福井の気比浜は石川県真脇遺跡にも近く、日本海で捕鯨や追い込み漁が古くからあったということだろう。また和歌山県太一町というと、紀氏の部である木部海人族のメッカであり、イルカやクジラを捕獲していた人々が、木部やあるいは神武東征にある久米部といった海人族であろうことは想像に難くない。南紀は今でも捕鯨産業が有名であり、その木部の大元を考えれば、捕鯨で関係が非常に深い玄界灘の壱岐海人族がまず筆頭であろう。壱岐には天皇の陰日なたとなる氏族であることを証明する最古の月読神社が存在する。
●クジラ取り、いさな取り氏族は明白
これはつまり・・・
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同志社、梅花女子大で家政学を教えた高正晴子は『鯨料理の文化史』(2013 星雲社)で、日本の鯨、イルカ漁に関する全国聞き込み調査を行い、分布図をいくつか作っている・・・。以下略
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