●三苗
三苗(さんびょう)とは、中国神話に登場する悪神。共工、驩兜、鯀とともに並ぶ四罪の一人。
三苗の論戚誼(ろんせきぎ)は、丹朱(たんしゅ)と共に堯(ぎょう)に対して反乱を企てたとされ、それが四罪と目される由来となっている。この闘いに敗れたのち、三苗の子孫たちは南方に落ちのび三苗国を建てたとされ、その国の様子や位置は『山海経』などに記されている[1]。三苗の領していた土地の主要分布は長江周辺、洞庭湖と鄱陽湖の間であるとも見られている[2]。
『史記』舜本紀には、「三苗の子孫たちが西の方角にすむ西戎たちになった」と記されている[3]。ミャオ族の淵源とも言われているが関連性は不明。
脚注
1.^ 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 268-269頁
2.^ 『戦国策』魏策云「昔者三苗之居,左彭蠡之波,右洞庭之水,文山在其南,衡山在其北。」
3.^ 『史記』舜本紀「遷三苗於三危 以変西戎」
1.^ 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 268-269頁
2.^ 『戦国策』魏策云「昔者三苗之居,左彭蠡之波,右洞庭之水,文山在其南,衡山在其北。」
3.^ 『史記』舜本紀「遷三苗於三危 以変西戎」
参考文献
袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 268-269頁
袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 268-269頁
また同じくWiki三苗人にはこうある。
「古代中国の地理書『山海経』の海外南経によると、三苗国は貫匈国の西にあり、三苗人は人間の姿をしているが常に誰かとくっつきながら歩くという。また同書の大荒南経には苗民として紹介されており、讙頭の子孫で姓は釐(り)、肉をよく食べると記されている[1]。
『神異経』の記述によると、脇の下に翼が生えていたともいう。『淮南子』の高誘によってつけられた注によると、三苗人の「三苗」とは、「渾沌(こんとん)、窮奇(きゅうき)、饕餮(とうてつ)の3つの末裔である」ということを意味しているという[2]。
丹朱との関係
三苗人のひとり論戚誼(ろんせきぎ)は、讙頭(かんとう)の祖先であると考えられる丹朱(たんしゅ)と共に堯(ぎょう)に対して反乱を起こしたことがあり、その闘いの中では丹魚(たんぎょ)という魚の血を足の裏に塗り水の上を歩行可能にする術などを駆使したという。反乱には敗北しその後、さらに南方に落ちのびて形成されたのが『山海経』などに記された三苗国であるという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8B%97%E4%BA%BA
三苗人のひとり論戚誼(ろんせきぎ)は、讙頭(かんとう)の祖先であると考えられる丹朱(たんしゅ)と共に堯(ぎょう)に対して反乱を起こしたことがあり、その闘いの中では丹魚(たんぎょ)という魚の血を足の裏に塗り水の上を歩行可能にする術などを駆使したという。反乱には敗北しその後、さらに南方に落ちのびて形成されたのが『山海経』などに記された三苗国であるという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8B%97%E4%BA%BA
いずれにせよ、中国では滅ぼされるべきもの、という悪しき神、悪しき存在として根強く描かれているようである。この神は「渾沌・窮奇・饕餮の3つの末裔」であるとされるが、この三つの観念はいずれも中国江南の古い戒めの神であり、また宇宙の根源でもある摂理を表しており、中国の神仙思想や老子の宇宙観道教の根源そのもに影響を与えるものである。つまりこの三本の柱を日本神話に置き換えるならばまさに『古事記』別天津神(ことあまつかみ)五柱の天地開闢神のうちの「造化三神(ぞうかさんじん)」そっくりだとなるのである。
それぞれが中国の渾沌・窮奇・饕餮に対応する神々である。
これにもうひとつ加えて中国では四凶とも、あるいは別で四罪という表現もあるが、いずれも、かつての黄河文明を築いて、南部の長江文明を駆逐した現在の中国北朝以来の漢民族から見たときに、それらはすべてが長江文明そのものを象徴した事象であったと見られる。従って漢民族の畑作遊牧民族であった扶余系北方アジア人にとって、三苗とは、現在、南朝が侵略されたときに離散した民族であった人々を指す言葉なのだと考えてもよかろう。それはつまり三種類の苗(びょう)人だということで、少数民族となったミャオ族など、南越(ベトナム北部人)、滇(てん)人らを指す卑語であると考えられる。現在の雲南省あたりを三苗と言う風習が中国にはある。
ベトナム北部人はかつての南越人によって構成される。
南越とはベトナム(越南)の国名のもとである。
彼等は滇人と近い人種であり、呉越の北側にいたが、華北民族によって雲南省あたりに南下逃避したのちにベトナム北部に移住した。したがってドンソン文化という苗族やインドシナ各国人とも非常に近い文化を持つ。銅鼓に太陽のデザインを持ち、それは同じ雲南の懸崖墓の装飾デザインや滇の貯貝器の太陽紋、円文、鋸歯文とも類似。それらの絵柄は九州の装飾古墳に溢れてもいる。またこのずべての地域に蛇が共通して神とされている。(別記後述)
要するに鳥越らが言う「倭族」であり
遺伝子学の篠田健一や佐藤洋一郎らが可能性ありとしている、長江から直接日本へ逃れたボートピープルであろうと安田喜憲は書いている。
遺伝子的に、彼らの子孫であるベトナム人と日本人・韓国人には非常に近いY染色体遺伝子O2bが高い割合で存在する。これは3500年前以後の後天的な類似である。
一方O3は華北人、満州人にも多い遺伝子だが、これは太古にわれわれが同じ種族から枝分かれしたという原初的傾向を示す。
同時にチベット人に近いD遺伝子も日本人やアイヌに高い割合で存在する。これもO2b同様に3500年前以降の寒冷化によって長江周辺から離散した結果である。
華北人の遺伝子ハプログループにある特徴的なM8a 母方遺伝子は少数民族三苗やベトナム北部人、日本人には少ない。
漢民族が彼らを悪神とする理由は、当然、漢民族が彼らを追いやった過去からである。彼等はまた、その神話(犬祖伝説)から卑称である「犬」「狗人」とも呼ばれる。
そして現代の中国人の一部・・・反日右翼的過激派の中では、日本人のことを犬と同等とみなすものが根強く存在する。香港のレストランの店頭に「犬と日本人お断り」とよく書かれているのを見ることがあったと安田はややエキセントリックに書いている。(『日本神話と長江文明』)
ここまでの安田が書き募る内容は、すでに2009年頃からこのブログでもほとんど書いてきた内容と重複しており、読者諸氏もすでにここで読まれたことと思う。
2008年10月
2009年8月
雲南省滇王国と鳥取県淀江角田
2013年8月
では、彼らがなぜ離散していったかの究極の原因は何か?
なぜ黄河文明畑作遊牧民族が南下して、既存の長江文明人たちを追いやったのか。
それはもちろん地球の気候変動のためである。
これは過去、このブログで筆者が編集した画像である。
そのきっかけがやはり安田の『龍の文明 太陽の文明』2001からだった。
「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。
この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」
安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」
安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
本年、安田があらたにまとめた『日本神話と長江文明』では、この画像が記載されている。
まず急激な気候変動には4200~4000年前と3500~3200年前の二度がある。
寒冷期には海水は低くなる。現在よりも100メートルも海水面が下がると、それまで海で隔てられていた大陸間に往来が可能な凍った道ができることになる。長江文明はこのときのどちらかに凍りつく北部から南下してきた黄河文明人によって拡散した。
弥生時代の気候変動を見てみよう。
この時期は中国で前漢が滅び(紀元前208)が農民蜂起で滅び、紀元後220年には後漢が黄巾の乱で滅亡している。いずれも気候の急激な寒冷化が影響して、外敵が侵入して弱っていった結果である。
この寒冷期にちょうど魏志が言う「桓・霊の世」の倭国大乱が起きている。
これは明白に中国後漢滅亡の影響と、寒冷化による農耕不作に理由が求められる。
ところが、その急激な寒冷期の間を縫うように、小温暖期があった。このわずかな温暖適性期に、日本では邪馬台国が登場する。
そして雲南地方では、かつて紀元前に黄河文明に追いやられた三苗たちの築いた「女王国」である滇王国が紀元前250~紀元後100年の間に非常に隆盛している。
次回、滇王国と邪馬台国と日本神話
書いていて時間がなくなった。やっと食事させていただきます。