初秋の水田にヒガンバナが咲く季節となった。
日本人には馴染みの景色である。
ヒガンバナを真上から見ていると、放射状の蘂(シベ)がまず眼に入るが、花ガク部の花びらのくるりと巻いて交差する模様もかなり特徴的である。これがどうにも子供の頃から水引きのように見えてしかたない。
Wikiヒガンバナによると、その来歴は以下のとおりである。
「日本には北海道から琉球列島まで見られるが、自生ではなく、中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、畦や土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は適切に用いれば薬になり、また水にさらしてアルカロイド毒を除去すれば救荒食にもなる。そのような有用植物としての働きを熟知して運び込まれた可能性もある。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。また三倍体であるため種子で増えることができない。」
まとめてみると、その来歴・性質の特徴は
1 鱗茎(ユリ根状球根)に猛毒を持つ
2 種子を作らない三倍体で、自力では遠隔地に飛んで増えることができず、自分のいる周囲に球根を増やして増える(竹と同じ)
3 したがって遠隔地へ拡散するには人為を要する
4 はっきりとは言えないが中国由来らしい
5 繁殖地の寒暖にこだわらず繁殖する
6 毒性はやや強度(リコリン)だが、何度も水抜きすることで食用にもなり、薬にもされる
7 イネとともに持ち込まれたか、毒性を知っていてあえて持ち込んだらしい
ではその毒性とは?
●リコリンの薬効
「リコリン (lycorine) は、植物に含まれる有毒成分として知られるアルカロイドの一種である。
ヒガンバナ科の植物(ヒガンバナ、スイセンなど)に含まれるアルカロイドであるノルベラジンアルカロイドの範疇にある。催吐作用があり、多量に摂取すると死亡する。ただ、ヒトに対する致死量は10gと、アルカロイドの中では比較的毒性は強くない。 ヒガンバナ中のリコリンの濃度は、生の鱗茎中に 0.5 mg/g、生葉中に 0.3 mg/g[1]で、キク科植物に対するアレロパシー作用(他者を育ちにくくする抑制効果)の主成分となっている。
熱に対しては安定しているが、水溶性が高く、ヒガンバナのアレロケミカルとして認識されつつある。このため古くはヒガンバナを飢饉に際して食するときに、数日間流水にさらすことで食用にしていた。しかし食用としていたのは主に江戸時代以前であり、知識が無く中毒で死ぬ人数も相当数いたとされる。 また、ヒガンバナから加工される生薬「石蒜(セキサン)」の薬効は、この物質に由来する。
南アフリカなどの乾燥地帯に居住するサン人(ブッシュマンなど)などは、現地に生えているヒガンバナ科の植物に含まれるリコリンを、矢毒として利用する。」
Wikiリコリン
※ご注意!
水にさらすときはつぶしてから何度も何度もさらすこと。
こういうの読むとすぐにためしてみようとするお馬鹿さんが一人くらいいるもんで、だいたいそういう人は、例に漏れず慌てものなので、経験者にやりかたをよお~~く聞いてからやるように頼みますよ。うちのせいにされちゃあかなわんからね。水仙も同じ。花を切ってきたらよく手は洗っておくにこしたことはねえよ。いいかい?まあ、できあがってもただの白いでんぷん質だからうまくもないと思います。
●生薬
「ヒガンバナの鱗茎にはリコリン、ホモリコリン、ガランタミンなどのアルカロイドが含まれ、誤って食べると、 嘔吐、下痢、流涎、神経麻痺などが起こる。
石蒜は民間では生の鱗茎をすりおろし、足の裏に貼って用いた。
石蒜は民間では生の鱗茎をすりおろし、足の裏に貼って用いた。
成分のうちリコリンはジヒドロリコリンの製造原料となり、ガランタミンも利用されている。リコリンは強い嘔吐作用があり、、ジヒドロリコリンは催吐作用があるので、毒性が強い。 何か他の毒物を飲み込んでしまった時に救急的に吐き出させる必要があるときに新鮮な鱗茎1~3gを使うほかは家庭ではむやみに用いてはならない。」http://www.kanpoyaku-nakaya.com/higanbanakon.html
神経麻痺が起きるなら巫覡も使った可能性がある。
稲作とともに土に混ざって・・・というのはほとんど信憑性はなかろう。土のついた苗では、塩分の多い風の吹く船上の、長い航海には耐え切れまい。まして、たとえ持ち帰れたとしても、それから水田を作っていたら枯れてしまう。持って帰るなら種籾だったに決まっている。
誰が言い出した説なのか?昔の学者っていったい生活感がなさ過ぎる。
すると薬効を知っていてわざわざ取り寄せたか、取りに行ったことになる。その時代は縄文後期まで遡れるだろう。いずれにせよ、九州西部、南部、あるいは琉球諸島の貝貿易が関わった可能性もある。
そして自力で遠くへは繁殖しないということなら、日本の北海道までは人が運んだことになる。
その利用価値は、猪などから作物を守るためだろう。そして移送のときに菊には抑制作用を持つので、同時付着移動はありえない。菊とヒガンバナとの同時渡来はありえないから菊花の渡来は別時限に起きただろう。
古い時代の帰化植物は、どうしても九州を経由する。それは個人の単独交換貿易だろうと国家的交易であろうと、江戸期まで変わらない。博多はずっと日本の輸入貿易港であり続けたのであるから。ならば竹にせよヒガンバナにせよ、後世の菊の上陸も最初は九州(琉球経由もありえる)である。
そこからヒガンバナは倭人の舟で拡散したのであろう。
弥生時代には、当然、水田周囲にはヒガンバナが植えられたことだろう。猪やモグラや野鼠から稲や作物を守るために。
もう一度、ヒガンバナの花をよく見てみよう。
もちろん弧文も弧帯文(施帯紋)も、そのテキスタイルの最大の出処はゴホウラ貝断面説が最有力であることに変わりないが、アイデアの源泉にヒガンバナがあったとしてもおかしくはない。なぜならその深紅の色彩が生命を感じさせるうえに、わずか一週間で花は終わり、その後、あらゆる生命が死滅する季節だったはずの冬に、青々とした日に照る葉を延ばすさまは、古代人がそこに再生や永遠の命を感じないはずはないのだ。しかもそれがまったく反面では、死にいたる猛毒を持つ。死=生の死生観そのもの植物である。花びらはくるりと蕨手状の渦巻きも描き、放射状のシベは、太陽光のように開いている。
なにもかもが倭人の死生観そのものでできあがった花ではあるまいか。
じっと見ていると、ヒガンバナが次第に卑弥呼に見えてくる気がする。
紅花は弥生の纏向では栽培されていた。それは口紅のためだったかも知れないし、ベンガラや水銀朱の代用だったかも知れない。花粉も種子も作らぬ彼岸花は、だから考古学でも年縞でも検証対象にはならない。だから麟茎しか残せないが、死んでしまうことなく毎年花を咲かせてきたものがあるはずだ。すると卑弥呼よりもずっと以前から、日本の秋の水田風景にはヒガンバナが付き添ってきたことになる。なんと少なくとも3000年ほども、稲穂のすぐそばにヒガンバナは咲いていた。いや、今、咲いているヒガンバナのどこかに、縄文後期から子孫を増やし続けてきた原種の親株鱗茎が埋まっているのかも知れない。そしてそれがあるとすれば、纏向ではなく九州西部であろう。
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(山口百恵 曼珠沙華 まんじゅしゃか)